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発端
「まつしろ現代美術フェスティバル」の始まりは、2002年に開催された韓国と日本の共同開催によって行われたワールドカップを機に、この年の6月、公開講座として木村仁が開催した「現代美術ワークショップ」が発端となっている。このワークショップは、副タイトルを「場所の美術」と称し、いわゆるサイトスペシフィックな、ある場所が持つ歴史性や周辺の人々の記憶などを美術の世界で取り上げてゆく試みである。対象として選ばれた場所は、長野市松代町に残された第2次世界大戦の戦争遺跡、松代大本営であった。

ご承知のように、松代大本営とは第2次世界大戦末期、敗戦を覚悟した一部の日本軍将校が本土決戦を行うために日本の主たる中枢機関と天皇を安全な場所に移し、避難すべく建設した大地下壕のことである。この建設には多くの朝鮮人労働者が強制的に徴用され、かなりの犠牲者が生じたと伝えられているが、その実態はいまだ闇の中だ。「まつしろ現代美術フェスティバル」は、この遠くおぼろげで不確かな世界に向かって、かすかな声で呼びかけ続ける行為でもある。

その行為は、風化の一途をたどるべく運命づけられようとした大本営を、再び地上へとよみがえらせ、我々の意識の前に立ち上がらせる。

プロジェクトコンセプト
長野市の東南に位置する松代町。町という名称がつくが、長野市民は単にまつしろと呼ぶ。
ちょうど千曲川を挟んで長野市の対岸に位置する。川の中央には川中島。有名な古戦場だ。
長野市から古戦場を抜け松代大橋を通って入ってくると、目の前におむすび状の山がどんと見えてくる。皆神山だ。てっぺんが平らだがピラミッド状をしていて日本のピラミッドだと言われたりもする。そしてその右側に見えるのが舞鶴山。さらに南には上杉軍が陣取った妻女山がある。この妻女山と舞鶴山との間に象が鼻を延ばしたような形を思わせる山があり、これが象山である。象山、皆神山、舞鶴山。この三つの山の地下に総計10キロメートルにもおよぶ洞穴、大地下壕があるとは誰が想像できようか。松代町は実にのどかな町だ。
ではいったいどうしてこののどかな町に延べ数十キロにも渡る大洞窟が掘られることになったのだろうか?何がこの原動力となったのだろうか?
時は昭和19年、西暦で言うと1944年。大東亜戦争(太平洋戦争)はいよいよ終末に来ていた。沖縄が制覇されたのだ。沖縄といえば本土から目と鼻の先。しかしここで信じられないことが考えられた。そう、本土決戦。一億総決起。最後の一兵卒まで戦う。でも今でこそ信じられない狂気の沙汰といえようが、当時はそうでなかった。日本全体狂気が渦巻いていたのだ。最後のひとりまで戦うのは誰もが疑わない常識だったのだ。(少なくとも私にはそう思える)
そこで優秀な将校は考えた。まずは天皇の安全を確保する場所が必要だと。
松代大本営の保存をすすめる会が出版した松代大本営ガイドブックによると、発案者の陸軍少佐井田正孝は、松代を選んだ理由をこう説明している。

 (1) 本州の、もっとも幅の広い地帯にあり、近くに飛行場がある。
 (2) 固い岩盤で、10トンの爆撃にも耐え、地下壕に適する。
 (3) 山に囲まれており、しかも工事に適する広い平地がある。
 (4) 労働力が比較的豊かである。
 (5) 人情が素朴で、秘密が守られる。
 (6) 信州は神州に通じ、一種の風格がある。

ともあれこの静かな松代の町に、想像を絶する大地下壕の工事が始まることになる。表向きは地下倉庫工事として。
工事開始は昭和19年11月11日。これもいい日に語呂合わせしたと言われている。しかも時刻は11時11分、第一号の発破がとどろいた。現在ではこの日を記念して、毎年、NPO法人松代大本営平和祈念館の主催で追悼の集いが象山地下壕の北側、平和祈念館建設予定地で開かれている。工事に関しては他の関連資料を参考にして頂き、ここでは省略します。ともかく大勢の犠牲者、特に朝鮮人の犠牲者が出た。工事を急ぐあまり、当時日本の統治下であった朝鮮半島より大勢の朝鮮の民間人がほとんど拉致のような形で徴用されていたのだ。ほぼ着の身着のままで。大勢の朝鮮人を乗せた貨物列車が夜半静かに松代の駅に到着する。開かれた鉄の扉から一斉に韓国人があふれ出てくる。銃剣を構えた日本兵の監視の元で、地下壕工事現場近くに設けられた急ごしらえの飯場に連行されてゆく----。こんな映画のような1シーンの光景を想像し、胸が痛くなるのを感じる。

それから57年と7ヶ月後。2002年6月。日本と韓国の共催でワールドカップが開催されることになる。日本と韓国の関係をもう一度とらえ直す絶好の機会だ。かねてより気がかりであった身近にある大本営を、現代美術の世界を通して再考し、世界と関係づけてみようと考えた。

木村 仁の「羽根プロジェクト」について [ March 18, 2005 ]
木村 仁がいう羽根プロジェクトとは折り鶴の羽根の形を利用したものだ。折り鶴。それは日本人であれば誰もが幼少時より経験してきた典型的な折り紙の代表である。あまりにもありふれた形体であるが故に、美術としての認識などない。美術の表舞台からはほど遠い。その折り鶴をアートに奉ると言うことは、どこにでも転がっているそこらの小石をある日突然ダイヤモンドだと言って騒ぎたてるような場違いな奇妙な気恥ずかしさや、滑稽な感覚がつきまとう。ありふれた形体とは、かくも哀れなものである。しかし木村は、このありふれた形が持つもう一つの効用である祈りの世界に注目する。
もとより折り鶴そのものに祈念の情は無かった。それが生じたのは戦後、広島の被爆者である佐々木禎子さんによる。原爆病と戦いながら千羽の折り鶴を折り始めたのがきっかけと言われている。千羽鶴の生誕の影に原爆が漂う。その点、あのゴジラとの類似点が見られるが、2つはそれぞれ異なる方向を歩んだ。話を戻そう。木村は土着的ともいえる日本式祈りの形体に興味を示した。羽根プロジェクト以前には、神社で使用するかわらけや茶道の茶碗などを巨大化してインスタレーションを行っている。日本の社会が持ち合わせていた祈りの形への興味から始まり羽根プロジェクトにたどり着いた。そして折り鶴の片方の羽根と本体とを分離させることで、日常の世界を異次元の世界へと転化させることに成功した。羽根プロジェクトとは、折り鶴の片方の羽根と、もう片方の羽根がついている体の部分とを一対の形象としてあつかうことを基本としているが、時として羽根のみで表現されていたりする。また、もとは紙で作られた折り鶴の羽根ではあるが、金属で作られることも多い。それは鋳金を表現手段としてきた彼の過去の経歴によるものなのだが、最近では和菓子の材料で作ったりもしている。
この羽根プロジェクトには2つのパターンがある。一つは単に羽根、または、羽根と本体を象ったものでインスタレーションを行うもの。もう一つはこの形を使って参加型のプロジェクトを行うものである。参加型は、言うなれば本物の折り鶴のほうがはるかに先輩格である。ここでの木村の手法は、羽根または羽根と鶴の本体との対の形を、ある目的の場所に配置することである。目的の場所とは時として異なるが、歴史的な背景を負う場所であり、過去の戦争を思い起こさせる場所が多い。ことの起こりは長野市松代に残された戦争遺跡、松代大本営であった。この貴重な戦争遺跡は謎が多い。明らかに分かっていることは、戦時下に多くの朝鮮人が徴用されたことだ。彼らは、現在で言えば拉致に近い形で連れてこられた人々も多いと聞く。日本の社会では、戦後60年経った現在においても、これらのことに公的に正面から検討されてゆくことが少ない。木村は日本人が持つ祈りの形に興味を持つと同時に、戦争を背景にしたその時代に流れる日本の社会の空気や、戦後の総括をせず、いつまでも曖昧なまま見過ごしてしまおうとする日本の社会的体質に興味を示す。それは単に、他国に対してきちんとした断罪を行うことが出来ない不器用な性格さだけではなく、日本人が持ち、育ててきたある特殊な体質、それは、すべてが負のものとは言い切れないかもしれない何かがその根底にあるのではないか、と疑い始めたのだ。それはいったい何だったのか。また、それは現在もなお私たちに引き継がれているものなのか。木村は羽根プロジェクトを通してこのことを突きとめ、考えてゆきたいと語った。
忠海一平

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